藤枝市の概要
藤枝市は、静岡県のほぼ中央部、静岡市の西約20kmに位置し、東は焼津市、北は岡部町、南は大井川町、西は島田市に隣接しています。市内を流れる瀬戸川を中心とし、南北に長い地形です。北部は赤石山系の森林地帯、南部は大井川下流の左岸で平坦肥沃な志太平野の中央部に位置します。東京と名古屋の中間にあり、JR東海道本線や東名高速道路、国道一号など交通の便も発達し、東海道ベルト地帯の交通の要衝となっています。
また、大正時代に旧制志太中学校(県立藤枝東高校)の校技としてサッカーを採用するなど、サッカーの盛んな土地として知られ、多くのプロサッカー選手を輩出しています。
江戸時代には東海道藤枝宿の宿場町として栄え、現在も商圏人口は志太・榛原地区で最大です。近年藤枝駅周辺では開発が盛んで、JR東海道本線藤枝駅の乗降客数は静岡〜浜松間の各駅の中では最多となります。
藤枝のあゆみ
藤枝市には、古墳時代の遺跡などが残されています。そのうちのひとつ、飽波(あくなみ)神社は、仁徳天皇6年(316)に飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護の神として創設されました。志太平野で最も古い伝統のある神社といわれ、現在も地域の人々に親しまれています。また、4世紀末から5世紀にかけて、28基もの古墳群(若王子古墳群)が造られています。
奈良・平安時代には、2つの郡役所(志太郡衙、益津郡衙)が置かれ、志太平野の政治・経済の中心として栄えたといわれています。志太郡衙については国指定史跡として現在も保存され、志太郡衙資料館で古代の歴史を学ぶことができます。
戦国時代には今川義元の地盤となり、桶狭間の戦い以降は武田信玄や徳川家康の統治下に置かれました。西益津にある田中城は今川氏により築かれた城郭で、武田氏による駿河侵攻以降、対徳川氏城砦網の要として重要視されました。
江戸時代には東海道五十三次の宿場町、田中藩の城下町として、東海道の交通の要衝・教育の中心となり発展しました。
江戸幕府が倒れ明治政府が誕生すると、明治4年(1871)の廃藩置県により静岡県の一部となり、さらに明治22年(1889)の町制施行で藤枝町となりました。昭和29年(1954)には、藤枝町(除大覚寺上及び大覚寺下地区)、葉梨村、稲葉村、青島町、大洲村、高洲村が合併し、藤枝市として市制を施行します。
大正時代には静岡県立志太中学校(現在の県立藤枝東高校)が創立され、「蹴球(しゅうきゅう)」=サッカーが校技として取り入れられました。当時としては大変めずらしく、藤枝市のサッカーの歴史は全国的に見ても古いといえます。その後も地域のサッカー熱は加速して盛んになっていきました。中でも県立藤枝東高校はサッカー強豪校として知られ、全国大会の出場数は数え切れません。藤枝市は、プロサッカー選手を多く輩出するなど「サッカーのまち藤枝」として全国に知られ、サッカー王国静岡の中でも伝統を古くから築き上げています。
現在は、歴史や風土に育まれてきた藤枝市の文化を継承しつつ、「ひと・まち・自然が美しく夢と活力あふれる文化の都市」を将来都市像としてまちづくりを進めています。「日本一の藤の里づくり」「元祖サッカーのまち」「東海道藤枝宿の歴史」など、藤枝市が持つ個性を伸ばし、市民参加の魅力あるまちづくりを目指しています。
藤枝の名前の由来
若一王子神社の社伝によれば、後三年の役(1083〜1087年)で奥州へ下る際に若一王子神社に立ち寄った八幡太郎義家が詠んだ和歌からきているといわれています。
「松に花咲く藤枝の 一王子 宮居ゆたかに いく千代をへん」
裏山の松の木に藤の蔓が絡まって、花が咲き誇っている様を詠んだ和歌です。これが元で「ふじえだ」を「藤枝」と書くようになったと伝えられています。
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| 藤枝の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
藤枝市郷土博物館 |
| 住所: |
〒426-0014
藤枝市若王子500 [地図を見る] |
| 電話番号: |
054-645-1100 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00(入館は16:30まで)
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| 休館日: |
毎週月曜日、祝日の翌日、臨時休館日、年末年始(12月28日〜1月4日)
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| 入館料: |
大人200円、中学生以下無料
※藤枝市文学館と共通 |
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